信長公450プロジェクト

2017年 織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年

歴史

織田信長公「岐阜入城・岐阜命名」と「天下布武」

永禄10年(1567年)、織田信長公は斎藤龍興を破り、美濃を攻略しました。
信長公は、本拠地をここに移し、町の名をそれまでの「井口(いのくち)」から、「岐阜」に改めました。その様子は『信長公記』には次のようにあります。

「八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長嶋へ龍興退散。去て美濃国一篇仰付けられ、尾張国小真木山(小牧山)より濃州稲葉山へ御越しなり。井の口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明る年の事、」

信長公は、この岐阜城を拠点に天下統一に乗り出します。

岐阜から天下統一を目指す決意を示すように、中国の教えから引用した「天下布武」の印をこの年から使い始めたと伝えられます。

武力をもって天下を治めるとも捉えられる言葉ですが、「七徳の武を備えた者が天下を治める」という信長公の平和的な国づくりへの願いが込められていたとも言われています。

命名をめぐる諸説

命名

【説1】
信長公自らが命名
【説2】
信長公の命により、尾張の政秀寺(現在の名古屋市中区)の僧侶・沢彦宗恩が提案
※沢彦は、臨済宗妙心寺派の僧侶。中国の文献に精通し、信長公の教育係として実学(儒学、天文学等)を教えていたとされる。
⇒ 「天下布武」も沢彦が信長公に進言したと言われている。
【説3】
岐阜市長良、崇福寺住職・柏堂景森が進言
※柏堂は、斎藤氏の重臣・長井氏の出身。
快川紹喜の高弟として、快川が恵林寺に移った際に崇福寺住職となる。
⇒ 岐阜改称に異を唱えた信長公の直臣(鳴海助右衛門)に、中国の周の文王(西伯)の例をあげて説明(※岐阜市鏡島、乙津寺旧蔵「蘭叔録」)

由来

【説1】
中国で縁起の良い地名、「岐山」「岐陽」「岐阜」の中から選定
「岐」:中国の故事「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったもの。
「阜」:孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地になるよう願いを込めて。
【説2】
土岐氏時代から、禅僧の間で雅称されていた「岐阜」を採用
・瑞龍寺が稲葉山の南に移って以降、金華山を「岐山」・「岐阜」、里は「岐陽」(岐蘇川[木曽川]の陽[北]、金華山の南の革手守護所一帯)と雅称。
(※室町中期の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集「梅花無尽蔵」:「岐陽」)
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