信長公450プロジェクト

2017年 織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年

信長公居館跡

山麓居館の発掘調査の歩み

岐阜城の歴代城主の館は、金華山の西麓にある槻谷にあり、谷川の両側には段々地形が造られています。この地形のは発掘調査の成果から織田信長公が造ったことが分かりました。山麓の館は、斎藤道三公に始まる斎藤氏三代の頃に造られ、織田信長公が大規模に造成、改修をし、関ヶ原の合戦前哨戦まで使われていたようです。

山麓部では、昭和59年から1次調査が行われ、館の入口や水路、中心建物へ向かう通路の一部が確認されました。2次調査(昭和63年・平成元年)では竈や庭園遺構、3次調査(平成9~11年)では、石組井戸や斎藤氏時代の陶磁器などが多数出土しています。平成19年に4次調査を開始し、複数の庭園跡や建物跡、石垣などが見つかりました。

金箔瓦の発見

館の中心建物があったと考えられる平坦地の調査において、大量の焼けた壁度や釘、炭化材などの建築部材に混じり、表面が金色に輝く小さな瓦の破片が発見されました。

瓦の破片を繋ぎ合わせると1辺が約28センチの方形の飾り瓦が複数あることがわかりました。この方形の瓦には菊花文や牡丹文などの他、模様のない無文の瓦もありました。

牡丹文の飾り瓦の花びら部分の蛍光X線分析を行った結果、僅かですが金と金箔を貼りつける時に使用する漆の成分が検出されました。

牡丹文の飾り瓦は、花びらを一枚ずつ貼りつけ、立体的で非常に手間のかかる造りになっています。このような瓦は他では見つかっていません。また、改修して建物を建て替えた痕跡が認められないことから、織田信長公が館を造った時から使われていた可能性が高いと考えられます。

信長公の居館

永禄12年(1569年)6月、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、キリスト教の保護を求めて、信長公の居館を訪れました。信長公の居館は、館全体が庭園のような空間であったと考えられ、フロイスはここを地上の楽園と称しています。信長公35歳、フロイス37歳の時のことです。

これまでの発掘調査によって、山麓地区では建物や庭園を配した個別平坦地の集合体ではなく、自然物のように見えるように人工的に手を入れた谷川や岩盤を介して結び付けられた巨大な造形物ではないかと考えることができます。

このような構造の戦国城館は、日本では他に見られません。この山麓の「宮殿」には織田信長公の志向や美意識が現れていると思われます。

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