信長公450プロジェクト

2017年 織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年

信長公のおもてなし

武田信玄からの使者 - 秋山伯耆守

永禄11年(1568)、信長公は甲斐の戦国大名・武田信玄からの使者を迎え入れました。使者の名は秋山伯耆守虎繁といい信濃飯田城をあずかる武田氏の重臣でした。

信長公は七五三の膳をもって虎繁をもてなします。献立は七献まで続き、信長が直接饗応したようです。3日目には、丹波猿楽の梅若大夫の能を観たのち、長良川で鵜匠を集めて鵜飼の観覧を行っています。この時も、虎繁の船を信長公の船同様に仕立て、さらに信長公が獲れた鮎を直接虎繁に披露するといった大変なもてなしでした。

ポルトガルの宣教師 - ルイス・フロイス

永禄12年(1569)、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長公にキリスト教の保護を求めて、岐阜を訪れます。フロイス一行の来岐の知らせを受けた信長公は非常に喜び、特別に許可された場合を除いて何人も入れない空間である山麓の居館に招待したのでした。フロイスは、「茶の湯の室」で高価な品を拝見し、その後、甘い物(おやつ)を供されるといった饗応を受けました。

来岐の目的を達成したフロイス一行は京都へ出立しようとしますが、信長公は彼らを引き留め、山上の城へも招待し、城からの濃尾平野の眺めを誇らしげに披露したのでした。

夜の饗応では、信長公は自ら食膳をフロイスに運び、「汁」をこぼさないよう優しく声をかけたとされています。

宣教師たちは、城を案内されたことや、信長公自ら給仕をつとめたことを、破格の待遇として誇らしげに記録しています。

また、フロイスは信長公からかけられた一言を書簡に書き残しています。

「美濃へは何度でも訪れよ」

京都のお公家さん - 山科言継

永禄12年(1569)、京都の山科言継は、岐阜へ着くと塩屋の大脇伝内宅に宿をとりました。

言継が信長公の居館を訪れて挨拶したところ、今夕、山上の城の見物に来るよう誘いを受けました。到着すると、囃子によるもてなしからはじまりました。次いで、饗宴にうつります。食膳の給仕は信長公がつとめました。

堺の茶人 - 津田宗及

天正2年(1574)、堺を出発した津田宗及は、岐阜へ到着しました。津田宗及は、堺の豪商で、彼の記した茶会記によると、信長の岐阜でのもてなしは、「茶湯」と記されています。茶湯といっても、点前のみではなく饗膳をふるまう会席もおこないます。

宗及が席に着くと、いろいろな茶道具が飾られていました。会席では、信長の甥にあたる信澄と信長の二男信雄が給仕をつとめ、御飯のおかわりは信長自らが運んできました。

茶席では、宗及が見たこともない名品の数々に、宗及が信長へ進上した品である宗及旧蔵品を並べるという、信長公なりの「おもてなし」の演出がありました。

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